なぜピリオド楽器研究か (その二) 

たとえばエラール・ピアノ  名曲との関連

 当時のピアノは、音量増大ばかりでなく総合的な楽器性能も行きつ戻りつしました。ベートーヴェンのエラール・ピアノ改造はそれを物語り、そのようにアクションが進化する初期の段階でウィーン古典派のピアノ曲の多くが作曲されています。

 すでに1801年、ハイドンに贈呈されていたエラール・ピアノを知り、ベートーヴェンは1803年10月22日までにエラール・ピアノを入手、意欲的に使用して《ヴァルトシュタイン》ほかを作曲します。音域は当時の最大の新型ウィーン・ピアノよりも広く、ほかのウィーン・ピアノ工匠も、この英系フランス製ピアノの長所から学ぶ機会を得ることになります(仏人エラールは、大革命の難を避け渡英、英国ピアノの製法を習得)。
 幻想ソナタ《月光》第一楽章をベートーヴェンの指示通りダンパー開放のまま演奏するには、減衰が適度なピリオード楽器でなければならず、輝かしい音がなかなか減衰しない現代ピアノでは音が濁り「幻想」を実感できません(発音後無音となるまでの時間はチェンバロは長くても5秒。初期ピアノはもう少し長く、現代ピアノは20秒以上で不思議なことに強く弾いても弱く弾いても同じ)。《ヴァルトシュタイン》《熱情》には、《テンペスト》序奏部のような残響の多いピアノでは不快になる楽句・楽節がほとんどなく、この傑作曲はアフター・リングの長いピアノを意識して作曲されたとみられるのです。
 1803年の初版《テンペスト》序奏部冒頭の分散和音には、Ped記号を書き、続く2音ずつスラーの動きにはよほどダンパー解放をしてほしくなかったのか「O」の記号を大きく書いていますが概ね控え目な記入にとどまっています。モーツァルトも手紙に書いたように、ウィーン・ピアノの消音機能は高いので、消音の指示は特に書かなかったのでしょう。ペダル操作指示の多用は《ヴァルトシュタイン》終楽章が初めてです。

 ところが、タッチを軽くする改造を加えながらエラール・ピアノへの情熱は間もなく消え、数年でウィーン・ピアノに戻っています。ベートーヴェンのウィーン・ピアノ復帰に応えたのがシュタインの娘ナネットでした。

エラール・ピアノの改造
  ベートーヴェンは、1805年までにアクションを2度にわたり改造させ、奏者側へキイ・レバーを12mm延長、キイ支点も奏者側へ45mm移動。その結果、キイ・デイップはオリジナルの8.5-9.0mmから浅くなり6.0-6.5mm。キイ・レバー奥部にあったオリジナルの鉛ウェイトを支点よりも手前へ移動するなど、ウィーン・アクションの軽いタッチ感に近づけようとした改造痕を残した。1810年には、「もう簡単には使えない」としながら「記念品」ゆえ売却はせず、1813年春、ナネットの弟マテウスがアクション整備。1824年、弟のJohann(ヨーハン)に譲られた。

 ウィーンの新聞に英国ピアノの記事が載るのは1790年代になってからで(Maunder,‘Keyboard Instruments ‥’, Oxford 1998, p.112)、ハイドンは、ロンドン旅行土産にロングマン&ブロードリップ製ピアノを持ち帰りますが、まだウィーンの英国ピアノは少なかったようです。
 当時はベートーヴェンが演奏家、作曲家として地位を確立した時期で、プラハやドレスデン、ベルリン、ブダペストなどではいろいろなピアノをみる機会がありながら、コンサート用にピアノを運んだらしい。1796年11月19日、ナネットの夫Johann Andreas Streicherへ手紙で、ハンガリーのプレスブルク(現スロバキアのブラチスラヴァ)へのピアノ輸送を感謝しています。さらに1801年、初めてベートーヴェンを訪ねたチェルニーは、部屋のワルター製ピアノに気付きます。その後、エラール・ピアノを得て期待を膨らませながらも進行する難聴の不安もあり、エラール・ピアノに「もう使えない」と失望する言動からは、進化しつつある楽器にいっそう理想を求めようとした作曲家の姿がみえてきます。
 エラール楽器から学ぶウィーンのほかの工匠達の努力もあってウィーン・ピアノの表現力は進歩をみたのであり、ベートーヴェンが失望したからといって名曲成立時のエラール・ピアノの存在意義を見落としてはならないのです。

Comment

Comment Form

管理者にだけ表示を許可する

Trackback


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)