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モーツァルト時代の日本と洋楽 その四
複合楽器と光太夫
Wolfgangが死去する1791年、光太夫はロシア女帝Ekaterina(エカチェリーナ)から帰国の許可を得ます。サンクトペテルブルクでの謁見の機会に聞いた「ピアノとオルガンの複合楽器」と思われる音を「笙の音‥」になぞらえ、帰国後その体験が書き残されているのです(桂川甫周による聞き取り記録『北槎聞略』)。
一見、モーツァルト音楽と無関係にみえるこれら記録も、当時の「音響環境」を伝える重要な楽器情報です。
新型カラープレシンゲ?
長崎通事の『紅毛訳問答』から60年経つうちにピアノ時代となりました。
シーボルトは1828年、幕府役人が切腹させられる日本史上有名な事件を惹き起こしますが、1820年ころ作られた英国製スクエア・ピアノを持ち込みましたので、辞書に出ていた「カラープレシンゲ(オランダ語のチェンバロ)」という用語はどうなったのでしょう。
ナポレオン失脚後の1816年の冬は寒く、ベートーヴェンの傑作ピアノ曲が書かれたころでしたが、大革命で貴族の館から没収してあったクラヴサンなど旧式鍵盤楽器は燃やされてしまいます。
つまり、欧州はすっかりピアノ時代になっていました。シーボルトのピアノのように長崎出島経由でピアノが来たのですから、長崎通事の用語「カラープレシンゲ」は改訂を迫られたでしょう。
通事用語として「ピアノ」が追加されのかどうか。
新案・新人・新開発・新学期・新約聖書等「新し(あらたし)」は便利な一字で、原子爆弾は投下直後「新型爆弾」と報道されました。
それに、ついついモーツァルトもスコアにはピアノを「チェンバロ」と記入していたことがあるなどを考えると、長崎通事は「新型カラープレシンゲ」とかいったかもしれませんね。
Wolfgangが死去する1791年、光太夫はロシア女帝Ekaterina(エカチェリーナ)から帰国の許可を得ます。サンクトペテルブルクでの謁見の機会に聞いた「ピアノとオルガンの複合楽器」と思われる音を「笙の音‥」になぞらえ、帰国後その体験が書き残されているのです(桂川甫周による聞き取り記録『北槎聞略』)。
一見、モーツァルト音楽と無関係にみえるこれら記録も、当時の「音響環境」を伝える重要な楽器情報です。
新型カラープレシンゲ?
長崎通事の『紅毛訳問答』から60年経つうちにピアノ時代となりました。
シーボルトは1828年、幕府役人が切腹させられる日本史上有名な事件を惹き起こしますが、1820年ころ作られた英国製スクエア・ピアノを持ち込みましたので、辞書に出ていた「カラープレシンゲ(オランダ語のチェンバロ)」という用語はどうなったのでしょう。
ナポレオン失脚後の1816年の冬は寒く、ベートーヴェンの傑作ピアノ曲が書かれたころでしたが、大革命で貴族の館から没収してあったクラヴサンなど旧式鍵盤楽器は燃やされてしまいます。
つまり、欧州はすっかりピアノ時代になっていました。シーボルトのピアノのように長崎出島経由でピアノが来たのですから、長崎通事の用語「カラープレシンゲ」は改訂を迫られたでしょう。
通事用語として「ピアノ」が追加されのかどうか。
新案・新人・新開発・新学期・新約聖書等「新し(あらたし)」は便利な一字で、原子爆弾は投下直後「新型爆弾」と報道されました。
それに、ついついモーツァルトもスコアにはピアノを「チェンバロ」と記入していたことがあるなどを考えると、長崎通事は「新型カラープレシンゲ」とかいったかもしれませんね。
モーツァルト時代の日本と洋楽 その三
楽聖たちと音色変化装置
以前書きましたように、英国ピアノの音色変化装置は「ウナコルダ・ペダル」と「サスティン・ペダル」に集約され、現代ピアノに継承されます。しかし、同時代のウィーン・ピアノの音色変化装置は楽聖たちに無視されながらも多彩でした。
重要な作曲家たちが注目しなかったのでウィーン風な音色変化装置は、いま、ほとんど知られていません。多音色を出そう、あるいはチェンバロやオルガンに強弱変化をつけようとした「複合楽器」、そして「自動演奏楽器」も楽聖たちはあまり注目しませんでした。
楽聖たちと自動演奏楽器
それでもモーツァルトは、のちの困窮時代「自動オルガンのための曲K594」など3曲を、気乗りしないまま作曲していますし、ハイドン、ベートーヴェンにも「フルート時計のための」作品があり、≪コッペリア≫等次の世紀にかけて自動装置は影響を及ぼしたことから、自動演奏装置願望の時代風潮が推察できます。バレー≪くるみ割り人形≫にも自動人形の(というより魔法で動かして)パンタロンやコロンビーヌが踊る振り付けがありますね。
サントリー・ホール入口の自動演奏装置、飛騨の匠のからくり人形、ドイツの街角・広場にある仕掛け時計など、つい大勢が見惚れてしまいますから、人間いつの時代でも自動装置には興味を抱くのかもしれません。
自動演奏装置の普及版がオルゴールであり、アニメ『ムーミン』で知られた手回しオルガン(ストリート・オルガン)です。ただ、オルゴールは楽器を鳴奏させるのではなく、金属片をはじく発音法なのでオモチャ的であり、手回しオルガンはオルガン管を吹奏させますので、楽器らしさがあります。
十九世紀から二十世紀にかけて自動演奏ピアノが普及します。そのおかげで、マーラー/グリーグ/ラフマニノフ/ドビュッシーなど、大作曲家の「自作自演」が、ロール・ペーパーという記録媒体に残されました。
上記大作曲家の「自作自演」情報は、ウエブ上で知ることができます。
(つづく)
以前書きましたように、英国ピアノの音色変化装置は「ウナコルダ・ペダル」と「サスティン・ペダル」に集約され、現代ピアノに継承されます。しかし、同時代のウィーン・ピアノの音色変化装置は楽聖たちに無視されながらも多彩でした。
重要な作曲家たちが注目しなかったのでウィーン風な音色変化装置は、いま、ほとんど知られていません。多音色を出そう、あるいはチェンバロやオルガンに強弱変化をつけようとした「複合楽器」、そして「自動演奏楽器」も楽聖たちはあまり注目しませんでした。
楽聖たちと自動演奏楽器
それでもモーツァルトは、のちの困窮時代「自動オルガンのための曲K594」など3曲を、気乗りしないまま作曲していますし、ハイドン、ベートーヴェンにも「フルート時計のための」作品があり、≪コッペリア≫等次の世紀にかけて自動装置は影響を及ぼしたことから、自動演奏装置願望の時代風潮が推察できます。バレー≪くるみ割り人形≫にも自動人形の(というより魔法で動かして)パンタロンやコロンビーヌが踊る振り付けがありますね。
サントリー・ホール入口の自動演奏装置、飛騨の匠のからくり人形、ドイツの街角・広場にある仕掛け時計など、つい大勢が見惚れてしまいますから、人間いつの時代でも自動装置には興味を抱くのかもしれません。
自動演奏装置の普及版がオルゴールであり、アニメ『ムーミン』で知られた手回しオルガン(ストリート・オルガン)です。ただ、オルゴールは楽器を鳴奏させるのではなく、金属片をはじく発音法なのでオモチャ的であり、手回しオルガンはオルガン管を吹奏させますので、楽器らしさがあります。
十九世紀から二十世紀にかけて自動演奏ピアノが普及します。そのおかげで、マーラー/グリーグ/ラフマニノフ/ドビュッシーなど、大作曲家の「自作自演」が、ロール・ペーパーという記録媒体に残されました。
上記大作曲家の「自作自演」情報は、ウエブ上で知ることができます。
(つづく)
モーツァルト時代の日本と洋楽 その二
知られざる時代風潮
十八世紀の工匠は「自動演奏楽器(オートマタ)」や「複合(コンビネーション)楽器」の製作に情熱を燃やしました。それは時代風潮といえるほどの動向でしたが、一般には知られていません。
モーツァルトの活動に貢献した工匠・シュタイン製作の「チェンバロ+ピアノ」という複合楽器はそのジャンルの楽器です。現存2台のうち、ヴェローナにある1777年作かとされるコンビ楽器はチェンバロ部分に16’があります。ピアノ部分は製作年からすると、モーツァルトが初めてシュタイン・ピアノに遭遇した年なので、そのアクションがどのようなものであったのか類推する上で重要な楽器です。のちのシュタイン・ピアノのアクションとはかなり違っているのです。そろそろ英国と南独ではピアノの実用化が始まる頃でした。
余談ですがその少し前、モーツァルトはザルツブルクの山上要塞司令官夫人のためにクラヴィーア協奏曲ハ長調《リュッツォウ》K.246を作曲しています。この曲は初演時、ザルツブルクにはまだピアノがなくチェンバロで演奏されました。モーツァルト自身の解読による通奏低音譜が書かれていることでも知られています。
そのころのわが国は蘭学事始、杉田玄白の『解体新書』の時代です。
カラープレシンゲ
そして、前記1750年編「長崎通詞」のオランダ語辞典『紅毛訳問答』に出ているチェンバロを意味する用語「カラープレシンゲ」(=オランダ語のチェンバロ:クラーフェシムベル由来)の実物を、通詞たちは南蛮船(オランダ船)かオランダ館で見たので辞典用語として収載したと考えられます。そのチェンバロはどういうモデルだったのでしょうか、可能性として、
1.当時の新作楽器なら低地地方南部のモデル、あるいは工匠・デュルケンの楽器に代表される後期フレミッシュ・モデル(・・・二段鍵盤では、ドグレグ・ジャックやリュート列のついたモーツァルト家のチェンバロ仕様にそっくりです。ただし、そういった上級仕様楽器が長崎に来たかどうか)。
2.後期フレミッシュの一段鍵盤
3.ベントサイド・スピネット
4.上記以外の旧式楽器。
等が考えられます。
工匠シュタイン製作の「チェンバロ+ピアノ」については、拙著『著名博物館・コレクション別 チェンバロ クラヴィコードオリジナル楽器便覧』上巻90頁
低地地方南部のモデルについては同巻118〜120頁
後期フレミッシュ・モデルのレジスター仕様については同巻83頁
をご覧下さい。
『紅毛訳問答』は、東京外語大付属図書館蔵書目録の書名によれば『紅毛譯官問答』(写本). 小倉善就著 寛延 3(1750)年。
(つづく)
十八世紀の工匠は「自動演奏楽器(オートマタ)」や「複合(コンビネーション)楽器」の製作に情熱を燃やしました。それは時代風潮といえるほどの動向でしたが、一般には知られていません。
モーツァルトの活動に貢献した工匠・シュタイン製作の「チェンバロ+ピアノ」という複合楽器はそのジャンルの楽器です。現存2台のうち、ヴェローナにある1777年作かとされるコンビ楽器はチェンバロ部分に16’があります。ピアノ部分は製作年からすると、モーツァルトが初めてシュタイン・ピアノに遭遇した年なので、そのアクションがどのようなものであったのか類推する上で重要な楽器です。のちのシュタイン・ピアノのアクションとはかなり違っているのです。そろそろ英国と南独ではピアノの実用化が始まる頃でした。
余談ですがその少し前、モーツァルトはザルツブルクの山上要塞司令官夫人のためにクラヴィーア協奏曲ハ長調《リュッツォウ》K.246を作曲しています。この曲は初演時、ザルツブルクにはまだピアノがなくチェンバロで演奏されました。モーツァルト自身の解読による通奏低音譜が書かれていることでも知られています。
そのころのわが国は蘭学事始、杉田玄白の『解体新書』の時代です。
カラープレシンゲ
そして、前記1750年編「長崎通詞」のオランダ語辞典『紅毛訳問答』に出ているチェンバロを意味する用語「カラープレシンゲ」(=オランダ語のチェンバロ:クラーフェシムベル由来)の実物を、通詞たちは南蛮船(オランダ船)かオランダ館で見たので辞典用語として収載したと考えられます。そのチェンバロはどういうモデルだったのでしょうか、可能性として、
1.当時の新作楽器なら低地地方南部のモデル、あるいは工匠・デュルケンの楽器に代表される後期フレミッシュ・モデル(・・・二段鍵盤では、ドグレグ・ジャックやリュート列のついたモーツァルト家のチェンバロ仕様にそっくりです。ただし、そういった上級仕様楽器が長崎に来たかどうか)。
2.後期フレミッシュの一段鍵盤
3.ベントサイド・スピネット
4.上記以外の旧式楽器。
等が考えられます。
工匠シュタイン製作の「チェンバロ+ピアノ」については、拙著『著名博物館・コレクション別 チェンバロ クラヴィコードオリジナル楽器便覧』上巻90頁
低地地方南部のモデルについては同巻118〜120頁
後期フレミッシュ・モデルのレジスター仕様については同巻83頁
をご覧下さい。
『紅毛訳問答』は、東京外語大付属図書館蔵書目録の書名によれば『紅毛譯官問答』(写本). 小倉善就著 寛延 3(1750)年。
(つづく)
モーツァルト時代の日本と洋楽 その一
長崎通詞(つうじ)と楽器名
今年のNHK大河ドラマは『篤姫』。時代は明治維新直前の幕末です。その少し前(ナポレオン戦争時代=ベートーヴェン時代)、高輪の薩摩(島津)藩邸にはオルゴールがあったそうです。
今回のブログは、またそれより50年ほどさかのぼる長崎・出島の西洋音楽関連情報です。
以前のブログでふれたように、長崎の出島経由で洋楽が伝わっていたことを示唆する資料があります。出島から近くの長崎奉行所まで隊列を組んだ楽隊が演奏行進したとか。奉行所ではオランダ国歌も演奏したのでしょう。
モーツァルト誕生の6年前=江戸中期の1750年編、幕府とオランダ間に立った通訳「長崎通詞」によってまとめられたオランダ語辞典『紅毛訳問答』に出ている以下の楽器名が興味深い。 それらは、
ヲルゴルナ→オルガン(オルゴールの語源か?)
トロンペット→トランペット
ヒヨール→ヴィオール(ヴァイオリン)
はるふ→ハープ
バス→バス・ヴィオール(コントラバス?)
カラープレシンゲ→クラーフェシムベル(オランダ語のチェンバロ)
フロイト→フルート。
複合(英:コンビネーション)楽器と自動演奏楽器の十八世紀
その『紅毛訳問答』から約40年後、ロシアに漂着した伊勢の船頭・大黒屋光太夫は当時を象徴する複合楽器の音を耳にしたようです。
自動演奏装置願望。その流れはあまり知られていませんが、十八世紀の楽器製作家は自動演奏楽器(オートマタ)」や「複合楽器」の製作に熱心でした。モーツァルトゆかりの工匠・シュタインが製作した「チェンバロ+ピアノ」の複合楽器は有名です。モーツァルトが初めて遭遇したピアノ・アクションがどのようなものであったかを類推する上で重要な楽器だからです。
(つづく)
今年のNHK大河ドラマは『篤姫』。時代は明治維新直前の幕末です。その少し前(ナポレオン戦争時代=ベートーヴェン時代)、高輪の薩摩(島津)藩邸にはオルゴールがあったそうです。
今回のブログは、またそれより50年ほどさかのぼる長崎・出島の西洋音楽関連情報です。
以前のブログでふれたように、長崎の出島経由で洋楽が伝わっていたことを示唆する資料があります。出島から近くの長崎奉行所まで隊列を組んだ楽隊が演奏行進したとか。奉行所ではオランダ国歌も演奏したのでしょう。
モーツァルト誕生の6年前=江戸中期の1750年編、幕府とオランダ間に立った通訳「長崎通詞」によってまとめられたオランダ語辞典『紅毛訳問答』に出ている以下の楽器名が興味深い。 それらは、
ヲルゴルナ→オルガン(オルゴールの語源か?)
トロンペット→トランペット
ヒヨール→ヴィオール(ヴァイオリン)
はるふ→ハープ
バス→バス・ヴィオール(コントラバス?)
カラープレシンゲ→クラーフェシムベル(オランダ語のチェンバロ)
フロイト→フルート。
複合(英:コンビネーション)楽器と自動演奏楽器の十八世紀
その『紅毛訳問答』から約40年後、ロシアに漂着した伊勢の船頭・大黒屋光太夫は当時を象徴する複合楽器の音を耳にしたようです。
自動演奏装置願望。その流れはあまり知られていませんが、十八世紀の楽器製作家は自動演奏楽器(オートマタ)」や「複合楽器」の製作に熱心でした。モーツァルトゆかりの工匠・シュタインが製作した「チェンバロ+ピアノ」の複合楽器は有名です。モーツァルトが初めて遭遇したピアノ・アクションがどのようなものであったかを類推する上で重要な楽器だからです。
(つづく)
名器・ルッカースのふるさと
アントワープ フレースハイス博物館外観
1501〜4年建造。以来19世紀中頃まで肉屋のギルド本部のおかれた建物。

『フランダースの犬』の像があるアントワープの大聖堂前に市庁舎、そこから歩いてすぐのところです。
館は、道を挟んでRuckers ファミリーの工房のあった建物と向き合っています。
いま評判の 「ユー・チューブ」という動画でこのあたりの風景ほかを見ることができます。
ルッカース・ファミリー
ヴァイオリンの名器ストラディヴァリにたとえられるチェンバロの名器は、十六世紀末からアントワープで作られたルッカース・ファミリーの楽器です。オリジナル状態のまま現存する楽器はありません。
しかし、イタリアを除くヨーロッパ十八世紀の各国で作られた名器のルーツといえるモデルで、名画を残したルーベンスやファン・ダイク、レンブラント、フェルメールの時代の、スペイン領フランドルから独立した新興オランダの勢いやまぬ時代の楽器です。蛇足ですが、独立戦争ではオランダとなった北部七州と違いアントワープは取り残されたまま衰退。今はベルギー領の観光都市です。
チェンバロが博物館入りしてしまったこともあり、ながらくルッカース・ファミリー史については詳細不明でしたが、上記フレースハイス博物館の成果で歴史が、また、G. O’Brienの研究によって名器の構造製法が明らかになってきました。
そのチェンバロ史の重要な時期と日本は関わりがあります。
当時日本は、開幕以来の大事件天草四郎率いる島原の乱以後のキリシタン厳禁策で、オランダとのみ繋がりを保つことになり、西洋音楽の伝来が途絶えたといわれます。しかしゼロではなく、洋楽伝来は幕末まで長崎・出島経由でわずかにあったようです。
その少し前の戦国末期、天正遣欧少年使節を派遣するキリシタン大名のひとり、大友宗麟の事跡を考古した大分県庁の広報記事があり、
http://www.pref.oita.jp/10400/neooita/vol44/special1.html
がとても興味深い。
帰国した少年たちはアルパ、クラヴォ、ラウテ、レべカの演奏をしたそうです。天才クリストフォリの新発明楽器「ピアノもフォルテも可能なアルピチェンバロ」という記録もあり、アルパをハープとみるのはいいとして、レべカをヴィオラと解釈するのはおかしい。ヴァイオリン属出現の頃ですからヴィオラ・ダ・ガンバかヴィオラ・ダ・ブラッチョかヴィオールか、似た発音ならレベックも。というわけで、上記サイト解説文中の「ヴィオラ演奏」という字句には疑問ありです。
チェンバロはオランダ語でクラーフシムベルでしたからクラヴォはチェンバロかどうか、ラウテは多分リュートでしょう。でも、アルパがアルピコルド(多角形イタリアン・ヴァージナル)、クラヴォは、スペインではクラヴィコルディオかクラヴォがチェンバロのことですし、広義に鍵盤楽器とみてクラヴィコードとかポジティフかポルタティフタイプのオルガンだった可能性も否定できません。
歴史好きの方へ
ルッカース時代のヨーロッパ、当時の我が国との関連 については、拙著『著名博物館・コレクション別 チェンバロ クラヴィコード オリジナル楽器便覧』上巻26/45頁、下巻97/127/159頁をご覧下さい。

博物館は楽器のほか、祭壇、陶器、ガラス器などの重要なアントワープ製工芸品、貨幣、武器、装飾品なども展示しています。
1501〜4年建造。以来19世紀中頃まで肉屋のギルド本部のおかれた建物。

『フランダースの犬』の像があるアントワープの大聖堂前に市庁舎、そこから歩いてすぐのところです。
館は、道を挟んでRuckers ファミリーの工房のあった建物と向き合っています。
いま評判の 「ユー・チューブ」という動画でこのあたりの風景ほかを見ることができます。
ルッカース・ファミリー
ヴァイオリンの名器ストラディヴァリにたとえられるチェンバロの名器は、十六世紀末からアントワープで作られたルッカース・ファミリーの楽器です。オリジナル状態のまま現存する楽器はありません。
しかし、イタリアを除くヨーロッパ十八世紀の各国で作られた名器のルーツといえるモデルで、名画を残したルーベンスやファン・ダイク、レンブラント、フェルメールの時代の、スペイン領フランドルから独立した新興オランダの勢いやまぬ時代の楽器です。蛇足ですが、独立戦争ではオランダとなった北部七州と違いアントワープは取り残されたまま衰退。今はベルギー領の観光都市です。
チェンバロが博物館入りしてしまったこともあり、ながらくルッカース・ファミリー史については詳細不明でしたが、上記フレースハイス博物館の成果で歴史が、また、G. O’Brienの研究によって名器の構造製法が明らかになってきました。
そのチェンバロ史の重要な時期と日本は関わりがあります。
当時日本は、開幕以来の大事件天草四郎率いる島原の乱以後のキリシタン厳禁策で、オランダとのみ繋がりを保つことになり、西洋音楽の伝来が途絶えたといわれます。しかしゼロではなく、洋楽伝来は幕末まで長崎・出島経由でわずかにあったようです。
その少し前の戦国末期、天正遣欧少年使節を派遣するキリシタン大名のひとり、大友宗麟の事跡を考古した大分県庁の広報記事があり、
http://www.pref.oita.jp/10400/neooita/vol44/special1.html
がとても興味深い。
帰国した少年たちはアルパ、クラヴォ、ラウテ、レべカの演奏をしたそうです。天才クリストフォリの新発明楽器「ピアノもフォルテも可能なアルピチェンバロ」という記録もあり、アルパをハープとみるのはいいとして、レべカをヴィオラと解釈するのはおかしい。ヴァイオリン属出現の頃ですからヴィオラ・ダ・ガンバかヴィオラ・ダ・ブラッチョかヴィオールか、似た発音ならレベックも。というわけで、上記サイト解説文中の「ヴィオラ演奏」という字句には疑問ありです。
チェンバロはオランダ語でクラーフシムベルでしたからクラヴォはチェンバロかどうか、ラウテは多分リュートでしょう。でも、アルパがアルピコルド(多角形イタリアン・ヴァージナル)、クラヴォは、スペインではクラヴィコルディオかクラヴォがチェンバロのことですし、広義に鍵盤楽器とみてクラヴィコードとかポジティフかポルタティフタイプのオルガンだった可能性も否定できません。
歴史好きの方へ
ルッカース時代のヨーロッパ、当時の我が国との関連 については、拙著『著名博物館・コレクション別 チェンバロ クラヴィコード オリジナル楽器便覧』上巻26/45頁、下巻97/127/159頁をご覧下さい。

博物館は楽器のほか、祭壇、陶器、ガラス器などの重要なアントワープ製工芸品、貨幣、武器、装飾品なども展示しています。
神話 その一
Zumpeは12使徒のひとりか?
7年戦争の戦火をのがれて渡英、英系ピアノの発展に貢献したジルバーマン派の工匠が、のちに12使徒と讃えられることになる歴史はよく語られています。
モーツァルト時代から作られ始めた、スクエア・ピアノ(独:ターフェルクラヴィーア)のヒットメーカーで知られるZumpe(ツンペ)が12使徒のひとりであるという説はどうやら間違いのようです。
マイケル・コールというスクエア・ピアノ研究家は、Zumpeがジルバーマン派である証拠はないと未だにウエブ上で力説しています。Edgar Brinsmead という人がZumpeの死後約100年経て「不注意にもよく調べずに」書いた説だそうです。
数年前スクエア・ピアノを調べているうち、コールの説に気づき、拙著『Mozartファミリーのクラヴィーア考』にはそれを紹介しました。 コールは、Zumpeの生まれ故郷近くにあるニュルンベルクの博物館の収蔵ターフェルクラヴィーアは多いけれど、「Zumpe楽器がないのが不思議」といっています。
ところが、Zumpeのことにふれる邦書は「12使徒のひとり」説ばかりの多数派。昨日立ち読みした某新刊書も同上。権威者の「コビキマゴビキ」による神話形成現象の例です。
拙著をお持ちの、ある方の初期ピアノ関連レクチャーの説明でもそうだったので指摘しましたら、「日本の資料にばかり頼ってしまった結果・・」。「拙著も日本語ですが・・」と言いたかったけどやめました。政府与党のように、多数決で負けても「再議決」で粘りたい。
コールのサイトは
http://www.squarepianos.com/zumpe.htm
英文ですがご覧下さい。
私は2005年のドイツ旅行で、広々した景色を眺めに行ったようなものでしたが、ニュルンベルク近郊のZumpeの生まれ故郷フュルトに行ってきました。その帰路に寄った、ヒトラーが第3帝国を夢見て建てようとした新国会議事堂の廃墟、その一角にあったナチスの記録を見せる展示場、ニュルンベルクのオーケストラ練習場があったこと等が、むしろ強く印象に残ってしまいました。
7年戦争の戦火をのがれて渡英、英系ピアノの発展に貢献したジルバーマン派の工匠が、のちに12使徒と讃えられることになる歴史はよく語られています。
モーツァルト時代から作られ始めた、スクエア・ピアノ(独:ターフェルクラヴィーア)のヒットメーカーで知られるZumpe(ツンペ)が12使徒のひとりであるという説はどうやら間違いのようです。
マイケル・コールというスクエア・ピアノ研究家は、Zumpeがジルバーマン派である証拠はないと未だにウエブ上で力説しています。Edgar Brinsmead という人がZumpeの死後約100年経て「不注意にもよく調べずに」書いた説だそうです。
数年前スクエア・ピアノを調べているうち、コールの説に気づき、拙著『Mozartファミリーのクラヴィーア考』にはそれを紹介しました。 コールは、Zumpeの生まれ故郷近くにあるニュルンベルクの博物館の収蔵ターフェルクラヴィーアは多いけれど、「Zumpe楽器がないのが不思議」といっています。
ところが、Zumpeのことにふれる邦書は「12使徒のひとり」説ばかりの多数派。昨日立ち読みした某新刊書も同上。権威者の「コビキマゴビキ」による神話形成現象の例です。
拙著をお持ちの、ある方の初期ピアノ関連レクチャーの説明でもそうだったので指摘しましたら、「日本の資料にばかり頼ってしまった結果・・」。「拙著も日本語ですが・・」と言いたかったけどやめました。政府与党のように、多数決で負けても「再議決」で粘りたい。
コールのサイトは
http://www.squarepianos.com/zumpe.htm
英文ですがご覧下さい。
私は2005年のドイツ旅行で、広々した景色を眺めに行ったようなものでしたが、ニュルンベルク近郊のZumpeの生まれ故郷フュルトに行ってきました。その帰路に寄った、ヒトラーが第3帝国を夢見て建てようとした新国会議事堂の廃墟、その一角にあったナチスの記録を見せる展示場、ニュルンベルクのオーケストラ練習場があったこと等が、むしろ強く印象に残ってしまいました。
パルティータ関連
《ガヴォット》の補足
先日、パルティータ関連で「《メヌエット》や《ガヴォット》が十八世紀の新しいダンス」と書きました。
《メヌエット》は、太陽王ルイ十四世に仕えたリュリがポワトゥ地方から発掘して以来で、基本舞曲より新しい十八世紀の舞曲といえますが、《ガヴォット》という舞曲名は十六世紀末の『オルケゾグラフィーOrchésographie』に出ていることを思い出しましたので、補足させていただきます。(同書に「ポワトゥのブランル」と書かれた踊りが、あるいは《メヌエット》に育ったのかもしれません)。
『オルケゾグラフィOrchésographie』は、日本でいえば戦国末期の1589年、フランスのお坊さんトワノ・アルボーが書いたダンス指導書、当時のダンス曲と踊り方(だけでなく打楽器練習リズム)が記録された貴重な本です。廉価・ペーパーバック本のDover版にも英訳があります。
ミニ・《ガヴォット》史
『オルケゾグラフィーOrchésographie』に出ている《ガヴォット》は、わずか2小節の譜例なので断定できませんが、私の解釈では「特徴的曲首モチーフとされるアウフタクト」のない、明るい曲です。つまり、十八世紀以降の《ガヴォット》とは異なるリズムです。《アルマン(ド)》も出ていますが、そのリズムもその後のものと異なっており、図案や装飾が国と時代で異なるように、「踊りと音楽」は時代とともにファッション的に変容すると考えられます。《メヌエット》の有名曲を例に、アンナ・マグダレーナ曲集のト長調《メヌエット》と、《アルルの女》からのそれを比較すると違いがよくわかります。
舞曲名《ガヴォット》はその後も「古くて新しい舞曲」として登場し続けます。モーツアルトも書き(例:K.300)、ハプスブルク最後の宮廷作曲家・ツィーラーによる、楽しいウィンナワルツの序奏部にも出てきます。そして、舞曲に対応するときは国と時代で異なる曲想に注目しましょう
先日、パルティータ関連で「《メヌエット》や《ガヴォット》が十八世紀の新しいダンス」と書きました。
《メヌエット》は、太陽王ルイ十四世に仕えたリュリがポワトゥ地方から発掘して以来で、基本舞曲より新しい十八世紀の舞曲といえますが、《ガヴォット》という舞曲名は十六世紀末の『オルケゾグラフィーOrchésographie』に出ていることを思い出しましたので、補足させていただきます。(同書に「ポワトゥのブランル」と書かれた踊りが、あるいは《メヌエット》に育ったのかもしれません)。
『オルケゾグラフィOrchésographie』は、日本でいえば戦国末期の1589年、フランスのお坊さんトワノ・アルボーが書いたダンス指導書、当時のダンス曲と踊り方(だけでなく打楽器練習リズム)が記録された貴重な本です。廉価・ペーパーバック本のDover版にも英訳があります。
ミニ・《ガヴォット》史
『オルケゾグラフィーOrchésographie』に出ている《ガヴォット》は、わずか2小節の譜例なので断定できませんが、私の解釈では「特徴的曲首モチーフとされるアウフタクト」のない、明るい曲です。つまり、十八世紀以降の《ガヴォット》とは異なるリズムです。《アルマン(ド)》も出ていますが、そのリズムもその後のものと異なっており、図案や装飾が国と時代で異なるように、「踊りと音楽」は時代とともにファッション的に変容すると考えられます。《メヌエット》の有名曲を例に、アンナ・マグダレーナ曲集のト長調《メヌエット》と、《アルルの女》からのそれを比較すると違いがよくわかります。
舞曲名《ガヴォット》はその後も「古くて新しい舞曲」として登場し続けます。モーツアルトも書き(例:K.300)、ハプスブルク最後の宮廷作曲家・ツィーラーによる、楽しいウィンナワルツの序奏部にも出てきます。そして、舞曲に対応するときは国と時代で異なる曲想に注目しましょう
大バッハの肖像
頭蓋骨からの再現
バッハ研究を続けましょう。
頭蓋骨に肉付けしたJ. S. バッハの顔が新聞(3月1日朝日夕)に出て、最新技術によるらしいのですがこれまでと違う表情にいささか驚きました(過去記事は、朝日の有料データ・ベースでどうぞ・・記事画像を見せているブログ執筆者もいますが著作権は?)。
「人は見かけによらず(立派だったりダメだったり)」説の私に、かねてから知人の精神科医は「診断は人相から・・精神は顔に現れるから」といい、人相学を信じています。
はからずも記事は、バッハ先生のご気性に思いを馳せる機会となりました。しかし、よく見ると
目と口元の表情以外は従来の肖像や頭像とまるっきり違うわけではなく、見慣れた旧像が良く出来ていたことを裏付けているように思います。旧像は、1894年にバッハの埋葬されていた聖ヨハニス教会の改修があり、そのとき発掘された頭蓋骨に基づくもの です。その事情を昔調べたことがありますので、以下に要約してみます。
バッハの事情・カトリックの典礼音楽がなぜ作品に?
バッハ時代、「強健公」で有名なザクセン選帝侯の宮廷はドレスデン。公はポーランド王を兼ねるため「カトリック」に改宗した。ドレスデンの華やかな貴族文化と対照的に、ライプツィッヒは「プロテスタント」の市民文化を構築し、2大教会(聖トーマス/聖ニコライ)のほか3教会(聖マタイ/聖ペテロ/聖ヨハニス)と大学付属の教会(聖パウロ)があった。
父親レオポルトの手紙にも書かれたキリストの言葉どおり、「予言者は故郷では歓迎されない」ことになったモーツァルトのザルツブルクに似て、バッハにとってもライプツィッヒは居心地の良いところではなかった。市当局と対立したバッハは、「カトリック」の典礼曲《キリエ》《グローリア》(のちの《ロ短調ミサ(BWV232)》中の2曲)を添えてザクセン選帝侯に「選帝侯宮廷作曲家」の称号を請願、授与され、立場を有利にするしたたかさをみせた。
有名なシャイべの作品批判でわかるように、当時の人にとって難解なバッハ作品は理解されなかったし、市当局に対する対抗的姿勢は、カントールとしての評価にはマイナス。葬儀後の埋葬のされ方にまで影響したらしい。
ザクセン選帝侯妃は夫の改宗を生涯悩んだと聞く。カントールのいたトーマス学校々舎は1902年に取り壊し。
埋葬
現在、バッハの墓碑は格の高い聖トーマス教会にある。しかし、バッハは聖ヨハニス教会墓地に「平凡に」埋葬されていた。教会改修を機に遺骨が発掘されたのは145年後の1894年。既に墓碑も失われており、発掘調査時の報告書(東京大学医学部図書館 ワルダイエル文庫蔵/岩田 誠著『脳と音楽』メディカルレビュー社刊 に報告書の全訳)によれば、
重層する他人の遺骨とバッハの遺骨を区別するうえで「オーク材の柩(ひつぎ)」という記録との一致、頭蓋骨縫合線・歯牙の示す加齢の具合、肉付け復元した容貌と残る肖像画との一致‥等々がバッハのものとする判断材料になった。筋肉の付着部分が際立って逞しい四肢骨からみて、身長は166.8cm。ほかの骨格サイズも頭蓋内容積が1479.5cc等‥で、「驚くほど平均的なドイツ人のサイズ」
という。
あのバッハが、メンデルスゾーンによる「バッハ復活」以前は墓碑もなく、埋葬位置も見失われるほどの「埋もれた作曲家」であったことがわかる。しかし、モーツァルトの遺骨収集が絶望的な事情と較べれば救われる話。
雑学
生前、テレマンのほうが人気だったとか、息子のC. Ph. E. バッハのほうが有名だったとか言われてきました。「へぇー」と思う方も多いでしょうが、埋葬のされ方が証明していますね。
大バッハの「戸籍上」の三男C. Ph. E. バッハも確かに天才の一人です。彼のゴッド・ファザーがテレマンです。
「ゴッド・ファザー」はコッポラ映画のタイトルで知られました。名付け親と訳すこともあります。でも日本と違い「実の親に不幸があったら、その子供が成人するまで親の代り」をする役なので、西洋事情に合わせる訳なら代父の方が適しています。
バッハ研究を続けましょう。
頭蓋骨に肉付けしたJ. S. バッハの顔が新聞(3月1日朝日夕)に出て、最新技術によるらしいのですがこれまでと違う表情にいささか驚きました(過去記事は、朝日の有料データ・ベースでどうぞ・・記事画像を見せているブログ執筆者もいますが著作権は?)。
「人は見かけによらず(立派だったりダメだったり)」説の私に、かねてから知人の精神科医は「診断は人相から・・精神は顔に現れるから」といい、人相学を信じています。
はからずも記事は、バッハ先生のご気性に思いを馳せる機会となりました。しかし、よく見ると
目と口元の表情以外は従来の肖像や頭像とまるっきり違うわけではなく、見慣れた旧像が良く出来ていたことを裏付けているように思います。旧像は、1894年にバッハの埋葬されていた聖ヨハニス教会の改修があり、そのとき発掘された頭蓋骨に基づくもの です。その事情を昔調べたことがありますので、以下に要約してみます。
バッハの事情・カトリックの典礼音楽がなぜ作品に?
バッハ時代、「強健公」で有名なザクセン選帝侯の宮廷はドレスデン。公はポーランド王を兼ねるため「カトリック」に改宗した。ドレスデンの華やかな貴族文化と対照的に、ライプツィッヒは「プロテスタント」の市民文化を構築し、2大教会(聖トーマス/聖ニコライ)のほか3教会(聖マタイ/聖ペテロ/聖ヨハニス)と大学付属の教会(聖パウロ)があった。
父親レオポルトの手紙にも書かれたキリストの言葉どおり、「予言者は故郷では歓迎されない」ことになったモーツァルトのザルツブルクに似て、バッハにとってもライプツィッヒは居心地の良いところではなかった。市当局と対立したバッハは、「カトリック」の典礼曲《キリエ》《グローリア》(のちの《ロ短調ミサ(BWV232)》中の2曲)を添えてザクセン選帝侯に「選帝侯宮廷作曲家」の称号を請願、授与され、立場を有利にするしたたかさをみせた。
有名なシャイべの作品批判でわかるように、当時の人にとって難解なバッハ作品は理解されなかったし、市当局に対する対抗的姿勢は、カントールとしての評価にはマイナス。葬儀後の埋葬のされ方にまで影響したらしい。
ザクセン選帝侯妃は夫の改宗を生涯悩んだと聞く。カントールのいたトーマス学校々舎は1902年に取り壊し。
埋葬
現在、バッハの墓碑は格の高い聖トーマス教会にある。しかし、バッハは聖ヨハニス教会墓地に「平凡に」埋葬されていた。教会改修を機に遺骨が発掘されたのは145年後の1894年。既に墓碑も失われており、発掘調査時の報告書(東京大学医学部図書館 ワルダイエル文庫蔵/岩田 誠著『脳と音楽』メディカルレビュー社刊 に報告書の全訳)によれば、
重層する他人の遺骨とバッハの遺骨を区別するうえで「オーク材の柩(ひつぎ)」という記録との一致、頭蓋骨縫合線・歯牙の示す加齢の具合、肉付け復元した容貌と残る肖像画との一致‥等々がバッハのものとする判断材料になった。筋肉の付着部分が際立って逞しい四肢骨からみて、身長は166.8cm。ほかの骨格サイズも頭蓋内容積が1479.5cc等‥で、「驚くほど平均的なドイツ人のサイズ」
という。
あのバッハが、メンデルスゾーンによる「バッハ復活」以前は墓碑もなく、埋葬位置も見失われるほどの「埋もれた作曲家」であったことがわかる。しかし、モーツァルトの遺骨収集が絶望的な事情と較べれば救われる話。
雑学
生前、テレマンのほうが人気だったとか、息子のC. Ph. E. バッハのほうが有名だったとか言われてきました。「へぇー」と思う方も多いでしょうが、埋葬のされ方が証明していますね。
大バッハの「戸籍上」の三男C. Ph. E. バッハも確かに天才の一人です。彼のゴッド・ファザーがテレマンです。
「ゴッド・ファザー」はコッポラ映画のタイトルで知られました。名付け親と訳すこともあります。でも日本と違い「実の親に不幸があったら、その子供が成人するまで親の代り」をする役なので、西洋事情に合わせる訳なら代父の方が適しています。
《パルティータ 第一番》 BWV825 の曲想
《パルティータ第一番》BWV825と橋野さんの悩み
近くリサイタルを控えたピアニスト、橋野さんの語るBWV825感
「《パルティータ第一番》の序奏からして、あの明るさはなぜ?ピアノの重い音で表現するのがむつかしい!チェンバロを勉強しておけばよかった。」
明るいはずです。バッハの生涯で幸せな時期だったケーテン時代、BWV825はケーテン公の後嗣・長男誕生を祝い(シュミーダー目録による)、ソネットを添えて献呈された処女出版譜でした。
《クラヴィーア練習曲》にまとめられたのはのちのことです。終楽章の腕交差で現れる楽句は、ソネットの献辞・祝詞が織り込まれているそうですよ。
曲から受けた橋野さんの感慨は、作曲者の意図とぴったりです。作品成立時の作曲者の生活事情、心情が作品に投影された例でしょう。BWV825には成立時、明るい曲想になるべき事情があったのです。
だとすれば、モーツァルトがあっという間に書き上げた3曲の最終交響曲群のうち、アンリ・ゲオンがなぞらえ小林秀雄が「悲しみが疾走する」と紹介した第40番、珍しい短調です(弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516にもつながる言葉のようです)。当時、モーツァルトには「悲しみ」が織り込まれる生活事情、心情があったのでしょうか・・・経済的には苦しかった時期ですが・・・
ついでに楽式・パルティータとは?
バッハ時代の《パルティータ》はダンス・ミュージックをセットにした曲集です。構成は、「基本舞曲」のアルマンド、クーラント、サラバンド、ジグ。
舞曲集の成立当初、曲配列は違っていましたが諸国様式になじんだ南独出身のFroberger(フローベルガー)が組み合わせを創案したといいます。メヌエットやガヴォットなどは十八世紀の新しいダンス曲で「自由舞曲」という分類になります(ガヴォットの名称は、1589年に書かれた『オルケソグラフィー』というフランスのダンス指導書に出ているので長く愛好されたダンス。だが、十八世紀ものとリズムが異なる)。Frobergerのセットは 組曲Suiteといいます。組曲が古典舞曲集なら似た構成ですが、いまでは《アルルの女 組曲》等でわかるように「組曲」は、「舞曲」のセットとは限らない。といった定義は音楽辞典でお調べ下さい。そうそう、十七世紀の《ソナタ・ダ・カメラ》もダンス・ミュージックのセットでした。
音楽辞典・事典にはない関連雑学
セレブが高級ホテルに長期滞在するとき使う「スィート・ルーム」は、居間と寝室を「組み合わせ」たSuite room なのです。「甘い部屋」ではありません。
近くリサイタルを控えたピアニスト、橋野さんの語るBWV825感
「《パルティータ第一番》の序奏からして、あの明るさはなぜ?ピアノの重い音で表現するのがむつかしい!チェンバロを勉強しておけばよかった。」
明るいはずです。バッハの生涯で幸せな時期だったケーテン時代、BWV825はケーテン公の後嗣・長男誕生を祝い(シュミーダー目録による)、ソネットを添えて献呈された処女出版譜でした。
《クラヴィーア練習曲》にまとめられたのはのちのことです。終楽章の腕交差で現れる楽句は、ソネットの献辞・祝詞が織り込まれているそうですよ。
曲から受けた橋野さんの感慨は、作曲者の意図とぴったりです。作品成立時の作曲者の生活事情、心情が作品に投影された例でしょう。BWV825には成立時、明るい曲想になるべき事情があったのです。
だとすれば、モーツァルトがあっという間に書き上げた3曲の最終交響曲群のうち、アンリ・ゲオンがなぞらえ小林秀雄が「悲しみが疾走する」と紹介した第40番、珍しい短調です(弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516にもつながる言葉のようです)。当時、モーツァルトには「悲しみ」が織り込まれる生活事情、心情があったのでしょうか・・・経済的には苦しかった時期ですが・・・
ついでに楽式・パルティータとは?
バッハ時代の《パルティータ》はダンス・ミュージックをセットにした曲集です。構成は、「基本舞曲」のアルマンド、クーラント、サラバンド、ジグ。
舞曲集の成立当初、曲配列は違っていましたが諸国様式になじんだ南独出身のFroberger(フローベルガー)が組み合わせを創案したといいます。メヌエットやガヴォットなどは十八世紀の新しいダンス曲で「自由舞曲」という分類になります(ガヴォットの名称は、1589年に書かれた『オルケソグラフィー』というフランスのダンス指導書に出ているので長く愛好されたダンス。だが、十八世紀ものとリズムが異なる)。Frobergerのセットは 組曲Suiteといいます。組曲が古典舞曲集なら似た構成ですが、いまでは《アルルの女 組曲》等でわかるように「組曲」は、「舞曲」のセットとは限らない。といった定義は音楽辞典でお調べ下さい。そうそう、十七世紀の《ソナタ・ダ・カメラ》もダンス・ミュージックのセットでした。
音楽辞典・事典にはない関連雑学
セレブが高級ホテルに長期滞在するとき使う「スィート・ルーム」は、居間と寝室を「組み合わせ」たSuite room なのです。「甘い部屋」ではありません。
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